3/16/2015

岡本太郎が見ていた光琳


琳派のことを調べていて、岡本太郎が光琳について語っている文面を見つけました。(見つけたと言うより、美術手帖に書いてあっただけなのですが)
もう、毛穴が全開してしまうほど、その文章に引き込まれ心が動かされました。
やっぱ凄いなって思いました。

私は、琳派を調べていて、霞んで見えた作家がいました。
逆に、琳派として見ると、引き立つ作家がいました。

この二つの違いは何かが分からないまま、岡本太郎が光琳を語る言葉に出会い、霧が晴れて行くような感じがしました。

琳派は「侘び寂び」の対極の芸術だとも言われています。しかし、そうとは言いきれない印象を「侘び寂び」が嫌いの岡本太郎は持っているのか、岡本太郎が宗達について語っているところには、宗達に「侘び寂び」を感じているように読み取れるところがありました。

全文を紹介したいのは山々なのですが、面白いと思ったところを抜粋します。岡本太郎がパリの街角の本屋のショーウィンドーで光琳の「紅白梅流水図」に出会ったところからこの話ははじまっていました。
「この優美をきわめた屏風絵は、すこしも繊弱ではない。激しく、逞しく、単純で鋭い。(略) 日本美術の一つの特性のように考えられている。描きすぎない”ふくみ”、あいまい、肩すかしと思われるような柔軟性はみじんもない。破墨の味だとか、余白の気取りなどで逃げたところはまったくありません。正面からぶつかり、ギリギリに押してくる。」

私は海外で生活するようになり、光琳のような画より、日本画の特徴としている岡本太郎が言う「余白の気取り」が多少はある方が、懐かしく温かな気持ちになります。

それについても岡本太郎は語っています。
「宗達ーたとえば源氏物語の一連の屏風などは実にたのしい。すぐれて装飾的でありながら、その中の雰囲気にひたって遊べるような気分さえします。彼の作品は緊張を感じさせない。」
「だが、光琳の紅白梅、燕子花はどうでしょう。これらの画面に観入るとき、あなたは常の生活にない緊張感を要求される。」
「(光琳の画を)絶対的に支配する画面効果のもとにあらゆるものが苛酷・無慈悲にデフォルメされ、いささかの妥協も、情的なあいまいさも見せていない。驚歎すべき非情美です。純粋とはこういうものです。人は感傷的に、情的な面ばかりでそれを考えたがりますが」

この本文を読んで、宗達と光琳の画集があると、宗達から本を開くことが多い自分に気がつきました。
こんなことを書いてしまうのはどうかと思いますが、光琳の画集は「あとでゆっくり見よう」と言う緊張感があります。疲れるというか、、、。

もし、こうしたいろんな解説や評価の文を読むことなく、何の知識もなく、突然とフロリダの街で燕子花の複製画が目の前に現れたら私はどのように思ったのでしょう。
逆に、非情なほどのダイナミックな大自然がある中で、それは日本画と言う枠を超えて、何の理屈もなく、ただただ見入ったかもしれません。論理付けようとするからこそ、自分の目が霞んでしまうことだってあるのですね。光琳を琳派として解釈の中で見ようとするから疲れてしまうのかなって思いました。でも、琳派の琳って尾形光琳から来ているって読んだことがあるしなあって思いながら、もろもろ、
たぶん、岡本太郎はそんなことを言いたかったわけではないとは思いますが、どこか、太郎さんの語りを読むと、霧が晴れた気がするのです。

庭にとても大きな蝶がいました。15cmぐらいあったと思います。午前中の陽の光が美しい時でした。




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